私の母は、ずっと「尊敬できる人」でした。
少なくとも私は、50代後半になるまで、そう思っていました。
私は20歳で実家を離れました。それからは、母の膝の手術とリハビリのために1年ほど一緒に暮らした時期を除けば、ずっと離れて暮らしてきました。
離れていても、母はよく会いに来てくれました。
私が結婚したとき。息子が生まれたとき。二人目が生まれたときにも、何度も世話をしに来てくれました。
家族のお祝い事には、その都度参加してくれました。私たちが実家へ帰れば、お料理屋さんの仕出しを用意し、楽しみに待っていてくれる人でした。
母を嫌いだと思ったことは、一度もありません。
今振り返れば、あの頃の私たち母娘は、「ちょうどいい距離」に守られていたのだと思います。
母が「若干、毒親なのかもしれない」と気づいたのは、介護のために母を引き取り、同居を始めてからでした。
ここで使う「若干毒親」という言葉は、母を一方的に責めたり、何かの診断をしたりするものではありません。
尊敬してきた母への感謝と、同居して初めて感じた苦しさ。そのどちらも嘘ではない私が、母との関係を表すために選んだ言葉です。
この記事は、そんな母を引き取った私が、仕事を辞め、デイサービス、サービス付き高齢者向け住宅、特別養護老人ホームへと母を見送り、もう一度自分の仕事と暮らしを取り戻すまでの記録です。
「親のことを好きになれないまま介護している」
そんな自分を責めている方に、「私だけではなかった」と思ってもらえたら嬉しいです。
母を引き取ることになった日
同居のきっかけは、私の決意でも、母からの頼みでもありませんでした。
実家のご近所の方から言われた、ひとことでした。
「そろそろ、お母様を引き取ってあげたら?」
母は、実家で一人暮らしをしていました。
父が他界したあと、母は義理の母を看取り、それからはずっと一人で暮らしてきたのです。母もまた、家族の介護を経験した人でした。
離れて暮らす私には見えていなかった母の日常が、近くで見守ってくださっていた方には見えていたのだと思います。
※このときの経緯と、実家の片付けで分かったことは、こちらの記事に詳しく書いています。
→「親を引き取るタイミング|しっかりした母だからこそ、一人で決めていました」
当時の母は90代。
両膝の人工関節の手術を受けていましたが、自分の足で歩くことができ、年齢のわりには元気でした。
家の中はいつもきちんと整えられ、誰が訪ねてきても困らないような状態を保っていました。
離れて暮らす私から見れば、まだ一人で大丈夫そうに見えていたのです。
ただ、歩くことへの不安は、少しずつ出ていました。
私は母を引き取る前に、花柄の杖と花柄の押し車(シルバーカー)をプレゼントしていました。
母が少しでも明るい気持ちで使えるようにと、母の好きそうな花柄を選びました。
けれど実家では、ご近所の方に杖をつく姿や押し車を押す姿を見られたくなかったようで、ほとんど使われないまま置かれていました。
今は周りの目を気にすることなく、杖も押し車も迷わず使っています。特に花柄の押し車は、今でも気に入って使ってくれています。
同じ母でも、暮らす場所や周囲との関係が変わると、必要なものを受け入れやすくなることがあるのだと感じました。
それでも、ご近所の方から見れば「そろそろ」だったのでしょう。
当時のわが家は、子どもたちが独立し、夫婦二人で暮らしていました。
夫は母との同居を快く受け入れてくれました。そして私たちは、母を迎えるために、部屋数の多い郊外の家へ引っ越すことにしました。
私が思い描いていた、母との暮らし

母を引き取ると決めた私の頭の中には、ある光景がありました。
いつか街で見かけた、母と娘らしい二人です。
お母さんは、可愛い花柄の小さな介助式車椅子に乗り、娘さんと楽しそうに話しながら道を進んでいました。
買い物にでも出かけるところだったのでしょうか。二人ともおしゃれをして、とてもいきいきして見えました。
「私たちも、ああなれる」
そう思ったのです。
同じような車椅子を探したことさえありました。軽くて簡単に押せそうで、あれなら母をいろいろな場所へ連れて行けると思ったからです。
楽しい毎日が続くと信じていました。
実は今でも、ときどき「あんな可愛い車椅子はないかな」と探すことがあります。
こうして、母との同居生活が始まりました。
母の膝の手術をきっかけに、以前一緒に暮らしたときのことは、また別の記事でお話ししたいと思います。
介護のために仕事を辞めた日
同居を始めた頃、母はこう言ってくれていました。
「仕事、頑張りなさい。私は留守番しているから大丈夫」
その言葉に甘えて、私はしばらく仕事を続けていました。
当時の私は、介護施設で医療事務の仕事をしていました。
それまで長く医療事務や医師の事務作業を支える仕事をしてきた私が、介護施設へ転職したのは、「将来の母の介護に備えて、介護の世界を学んでおきたい」と思ったからでした。
それなのに、介護について学んでいる職場のすぐそばで、自分の母との暮らしは限界に近づいていました。
朝は早く、残業になる日もあります。
私が家を空けている間に、母の行動範囲は少しずつ狭くなっていきました。筋力が落ち、気持ちも沈みがちになり、口から出る不満も増えていきました。
「留守番しているから大丈夫」と言っていた頃の母は、もうそこにはいませんでした。
私は仕事を辞め、母にはデイサービスへ通ってもらうことにしました。
介護離職後の失業給付について
退職後は、失業給付を受けながら、次の仕事を探しました。
「自己都合で仕事を辞めたら、すぐには失業給付を受けられないのでは」と思われるかもしれません。
私の場合は、母の介護が退職理由であることを伝え、必要な確認を受けたうえで受給することができました。
ただし、介護を理由に退職した場合の扱いや必要書類は、一人ひとりの事情によって異なります。
退職を決める前に、できればハローワークへ相談しておくことをおすすめします。
※失業給付や介護休業の制度、辞める前に確認しておきたいことは、こちらの記事に詳しく書いています。
→介護離職して分かった、辞める前に知っておきたかったこと
介護離職は「働き方の作り直し」だった
次の仕事を探すため、母のデイサービスを、短時間の運動中心の施設から、昼食付きの一日型へ切り替えてもらいました。
そして、母がデイサービスにいる時間内で働ける事務のパートを見つけました。
介護離職というと、「それまでのキャリアが終わってしまう」という印象があるかもしれません。
けれど、私の場合は「働き方の作り直し」でした。
朝早くから残業まで働くのではなく、母がデイサービスにいる時間だけ働く。
介護サービスの時間に、自分の仕事を合わせるという考え方です。
理想の働き方ではなかったかもしれません。それでも、介護をしながら自分の生活を守るために、そのときの私にできる選択でした。
デイサービスで知った、母の見たことのない一面
母は医師から、「膝のためにも筋肉をつけましょう」と言われていました。
そこで私は、よかれと思って運動中心のデイサービスを探しました。
ところが、母は帰宅するなり「疲れたー」と言います。表情にも、「行かされている」という気持ちがにじんでいました。
通い始めて間もない頃、母がこう言いました。
「どうして車椅子の人と一緒に過ごさないといけないの?」
母は自分の足で歩くことができました。
だからなのか、車椅子を利用している方を下に見るような言葉が、その後も何度か口から出ました。
同じ介護サービスを利用する立場なのに、人を見下すような母の言葉。
私はそれを聞くたびに、胸がざわざわしました。
ずっと尊敬してきた母の、知らなかった一面でした。
今思えば、あれが「母は若干、毒親なのかもしれない」と気づき始めた、最初の瞬間だったのだと思います。
※デイサービスの探し方、嫌がる日の対応、補聴器の悩みについては、こちらの記事に書いています。
→デイサービスは早めに検討してよかった|90代の母を通わせて分かったこと
※デイサービスの探し方や、通ってみて分かったことは、こちらの記事に書いています。
→「デイサービスは早めに検討してよかった|90代の母を通わせて分かったこと」
一番ショックだった、母の電話
母の言葉で一番傷ついたのは、車椅子の方についての発言ではありませんでした。
ある日、母が妹(私にとっては叔母)と電話で話している声が、偶然聞こえてきたことがありました。
母が使っていたのは、操作の簡単ならくらくホンです。同じ家の中で話していたため、聞こうとしなくても、声が耳に入ってきました。
母は電話の向こうで、
「デイサービスに行かされている」
というようなことを話していました。
それだけではありません。
私の至らないところや、私への不満も話しているようでした。
私にとってデイサービスは、母をどこかへ追いやるためのものではありませんでした。
母の膝や筋力のことを考え、少しでも元気に過ごしてほしいと思って探した場所です。
そして、介護を続けながら私も働き、自分の生活を守るために必要な支えでもありました。
毎日の食事を用意し、病院や買い物へ連れて行き、母の希望にできるだけ応えようとしていた私にとって、「行かされている」という言葉は、とてもこたえました。
私の前では「ありがとう」と言ってくれていた母が、姉妹には、まるで娘に無理をさせられているかのように話している。
その声を聞いているうちに、自然と涙があふれてきました。
私は母に、泣きながら気持ちを伝えました。
「そんなふうに思っているのなら、私ではなく、姉妹に面倒を見てもらったら?」
たまっていた悲しさが、思わず言葉になって出たのだと思います。
けれど母から返ってきたのは、「電話で話している内容にまで入ってこないで」というような意味の言葉でした。
私がしてきたことは、母にとって何だったのだろう。
悲しいというより、力が抜けてしまうような気持ちでした。
そして何よりつらかったのは、泣きながら訴えた私の気持ちが、母には届かなかったように感じたことでした。
母も私も「分かってほしかった」
今思えば、母も苦しかったのだと思います。
長年暮らした実家を離れ、慣れない家で娘夫婦と暮らすことになった母は、ホームシックになり、涙を流すこともありました。
自分ではまだできると思っているのに、誰かの手を借りなければならない。
これまで当たり前にできていたことが、少しずつできなくなっていく。
その寂しさや悔しさを、母自身もうまく言葉にできなかったのかもしれません。
母にも、娘には直接言えない不満を、姉妹に聞いてもらいたい気持ちがあったのでしょう。
一方の私も、母のために住まいや仕事、毎日の暮らしを大きく変えていました。
母に分かってほしい。少しでも感謝してほしい。
そんな気持ちが、知らないうちに積み重なっていたのだと思います。
母も「分かってほしい」と思い、私も「分かってほしい」と思っていた。
けれど、距離が近すぎた私たちには、お互いの苦しさを受け止める余裕がありませんでした。
だから、何度もぶつかり合いました。
どちらか一人が悪かったのではなく、あの頃の私たちには、仕方のないことだったのかもしれません。
「親子でも、他人なんだ」
そう思った瞬間でした。
冷たい意味ではありません。
親子であっても、それぞれに違う気持ちを持つ、別の人間なのだということです。
母には母の言い分があり、私には私の痛みがある。
親子だからといって、すべてを分かり合えるわけではありません。
今思えば、そのことに気づいたのが、母との「ちょうどいい距離」を考え始めるきっかけだったのかもしれません。
聞いてしまった言葉も、そのとき感じた痛みも、なかったことにはできません。
「もしかしたら、母は若干、毒親なのかもしれない」
そう感じた一番大きな出来事は、あの電話だったと思います。
同居の現実——母を中心に回り始めた毎日
同居が始まり、わが家の暮らしは少しずつ「母中心」に変わっていきました。
特に大変だったのは、毎日の食事です。
3食の献立を考え、仕事の日には昼食も用意して、母が電子レンジで温めるだけで食べられるようにしておきました。
そこに、病院やクリニックへの付き添いも加わります。
洋服の買い物、美容院での白髪染めやパーマ、嗜好品、補聴器の調整。
「行きたいところへ、すぐに連れて行ってほしい」
母の「やってほしいこと」は、次から次へと出てきました。
休みの日には、家にこもっているよりも出かけたほうが母の気分転換になるだろうと、夫がいろいろな場所へ連れて行ってくれました。
夫の気遣いはありがたかったものの、休日もやはり母が中心でした。
「ありがとう」と言われても、つらいことはある
誤解のないように書いておくと、母は感謝を口にしない人ではありません。
その都度、きちんと「ありがとう」と言ってくれました。
ただ、月日がたつにつれて、その「ありがとう」から少しずつ感動が薄れていったように感じました。
言葉はあるけれど、してもらうことが当たり前になっていく。
母を責めるようなことではないのかもしれません。
それでも、毎日3食を作り、希望に応え続ける側には、こたえるものがありました。
だからこそ、母を「毒親」とは言い切れません。
私が「若干毒親」と表現するのは、母への感謝も愛情も、そして苦しさも、どれも嘘ではないからです。
眠れない夜と、二度の転倒
一番こたえたのは、夜でした。
母は夜中に何度もトイレへ起きます。
しんどそうに歩いていく気配がするたびに、私は転ばないかと心配になり、眠れませんでした。
実際に、母は二度転倒しました。
一度目は、私の留守中にベランダで。
二度目は、私も夫も家にいた休日でした。自分の部屋で転んで頭を打ち、出血が止まらなくなったため、救急車を呼びました。
病院へ搬送され、幸い検査に問題はありませんでした。傷を数針縫い、その日のうちに帰宅できました。
それでも、私の中には大きな不安が残りました。
家族がすぐそばにいても、転倒は防げない。
「これは、もう家族だけでは難しい」
そう思った瞬間でした。
もし今、「自分がもっときちんと見ていれば」と自分を責めている方がいたら、伝えたいことがあります。
私と夫が家にいたときでさえ、母は転びました。
そばにいれば、すべてを防げるわけではありません。
家族だけでは守りきれないこともあるのです。
サ高住へ——一人で抱えることをやめた

母は母で、「まだ自分でできることがあるのに、やらせてもらえない」という不満を抱えていました。
私は限界を感じ、母も不満をためている。
同居を続けることが、お互いのためにならなくなっていました。
そこで、サービス付き高齢者向け住宅、いわゆるサ高住への住み替えを考え始めました。
入居した当初、母は機嫌よく過ごしていました。
けれど、しばらくすると、また不満が出てきました。
「車椅子の人や、話をしない人が多い」
「併設のデイサービスまで歩くのが遠い」
「施設の人は何もしてくれない」
「洗濯機の使い方や干す場所の決まりが細かい」
「休日はカラオケばかりだから、デイサービスには行きたくない」
買い物へ連れて行ってほしい。服を買いたい。美容院へ行きたい。
それは同居の頃と変わらず、私はそのたびに対応していました。
場所が変わっても、母は母のままでした。
それでも、サ高住へ移ってもらったことで、私の生活には少しずつ余裕が戻ってきました。
事務のパートだけではなく、「もう少し働いてみよう」と思えるようになり、飲食店でも働き始めました。
振り返ると、母との距離と私の仕事は、面白いほど連動しています。
母がデイサービスへ行っている間だけ働けた頃。
サ高住へ移り、もう少し長く働けるようになった頃。
母との距離が一歩戻るたびに、私は自分の生活を一歩ずつ取り戻していきました。
特養入居まで——100人待ちでも、その日は突然来た
母を、いきなり施設へ入れたわけではありません。
振り返れば、少しずつ段階を踏んできました。
- 運動中心の短時間デイサービス
- 昼食付きの一日型デイサービス
- サービス付き高齢者向け住宅
- 特別養護老人ホーム
特別養護老人ホームへの新規入居は、原則として要介護3以上の方が対象です。
母は体調を崩して筋力が低下し、要介護3になりました。
私はインターネットで調べ、候補となる施設を10件ほどリストにしました。
それぞれへ直接電話をかけ、気になる施設には見学にも行きました。
最終的に3施設へ正式に申し込み、それぞれに必要な書類を準備しました。
※申し込みに用意した書類や、見学で確認したことは、こちらの記事に詳しく書いています。
→親の介護施設はどう選ぶ?介護施設で働いていた私が見学で確認したこと
情報収集で戸惑ったこと
介護施設について情報を集め始めた頃、検索・紹介サイトへの問い合わせで戸惑った経験もありました。
まだ本格的に施設を探すつもりではなく、ほかにどのような施設があるのかを知りたいという、軽い気持ちでの情報収集でした。
ところが、その後もショートメールで連絡が続き、私には必要以上に多く感じられました。
情報収集のつもりでしたが、問い合わせ方をもう少し慎重に考えればよかったと、少し後悔しています。
※紹介サイトとの付き合い方については、上の記事の中でお話ししています。
「100人待ち」と言われた特養
申し込みの際には、「100人ほどお待ちです」と伺いました。
母は90代でしたが、それでも「3年以内に入居できたら幸運なのかもしれない」と思っていました。
途中で施設へ、「今は何番目くらいでしょうか」と問い合わせたこともあります。
しばらくして、一番気になっていた施設から届いた手紙には、「27番」と記載されていました。
順番がここまで縮まることもあるのだと驚きましたが、それでも入居はまだ先だと思っていました。
ところが、ある日突然、施設から電話がかかってきました。
「ご入居いただけます」
ちょうど受け入れが可能な状況になったとのことでした。
しかもその頃、私は人生で初めて足の指を骨折し、思うように動けず、落ち込んでいる真っ最中でした。
あの電話を受けたときには、一筋の光が差し込んだように感じました。
驚きながら、慌ただしく引っ越しの準備をしたことを覚えています。
孫のひとことで動いた母
入居が決まったとき、母は初め、
「せっかく慣れたのにー」
と渋っていました。
ようやく馴染んだサ高住を離れることが嫌だったのです。
ところが、引っ越しの手伝いに私の息子、母にとっては孫が来てくれると分かると、母の気持ちは一変しました。
孫に会える。しかも、自分のために手伝いに来てくれる。
それが嬉しかったようで、その後はすんなりと引っ越してくれました。
高齢の親の「動きたくない」という気持ちが、思いがけないきっかけで変わることもあるのだと知りました。
特養は単純な申し込み順ではなかった
後日、私は思い切って施設の方へ尋ねました。
「どうして母の入居が決まったのでしょうか」
施設では、入居について会議で検討しているとのことでした。
待機している方の介護度や緊急性、施設側の受け入れ体制など、さまざまな事情を考えて判断しているそうです。
母は要介護3でしたが、ある程度は自分で身の回りのことができ、認知機能の低下もそれほど進んでいませんでした。
事前の面談での印象なども含め、その時点で施設が受け入れやすい状態だったのかもしれません。
母は昔から、外の方への対応はとてもよいのです。
この経験で分かったのは、特養への入居は、単純な「申し込み順」だけで決まるわけではないということでした。
要介護3になり特養を希望する場合は、「どうせ何年も待つから」と諦めず、早めに情報を集め、複数の施設へ相談しておくことも選択肢のひとつだと思います。
100人待ちと言われても、その日は突然やってくることがあります。
※申し込みの手順や、10施設のリストの作り方は、こちらの記事に詳しく書いています。
→特養は100人待ちでも入れる?要介護3の母が入居するまでにしたこと
親のお金を整理しておいてよかった
特養への申し込みとあわせて、介護保険負担限度額認定についても手続きをしました。
これは、所得や資産など一定の要件を満たす方について、介護保険施設での食費や居住費の負担を軽減する制度です。
サ高住では対象になりませんでしたが、特養へ入居した今は役立っています。
また、母のお金を管理しやすいように、主に使う口座を整理しました。
通帳には支出の内容を書き込み、お金の流れは表計算ソフトで記録しています。
こうした小さな積み重ねが、施設への申し込みや行政手続きをするときに役立ちました。
※親のお金の管理や介護保険負担限度額認定については、こちらの記事に詳しく書いています。
→「親のお金の管理|口座をまとめるとき本人確認で困ったことと、私がしている記録の残し方」
親を好きになれなくても、後悔しない介護はできる
母が特養へ入居したあと、私は、それまでダブルワークで続けていた飲食店のパートに、週1日から復帰しました。
けれど、慣れた職場を介護のために離れ、新しい分野の仕事へ挑戦する道のりは、決してまっすぐではありませんでした。
慣れない仕事や、忙しい飲食店での立ち仕事。
年齢的にも無理が重なり、体のさまざまなところに不調が出るようになりました。
「介護のために仕事を辞めなければ、慣れた職場で定年まで働けていたかもしれない」
そう思うこともあります。
それでも、当時の私が母と自分のために選んだ道です。後悔はありません。
今は、これからの年齢と体に合った働き方を、あらためて考えているところです。
※ブランク半年から仕事に復帰するまでの流れは、こちらの記事に書いています。
→介護離職からパートで復帰するまで|50代・ブランク半年でも仕事はありました
親を好きになれないまま介護をしていることに、罪悪感を抱く必要はないと、今は思っています。
無理に好きになる必要もありません。
デイサービスも、サ高住も、特養も、「使えるものは使う」でよいのです。
それは親を見捨てることではありません。
母と私、二人の暮らしを守るために必要な選択でした。
※罪悪感との付き合い方については、こちらの記事で詳しくお話ししています。
→好きになれない親の介護。罪悪感との付き合い方を、経験者が本音で書きます
おわりに——今はまた、この距離がいい

特養で暮らす母には、今のところ大きな不満はないようです。
母の暮らすフロアは、食事をする場所やお風呂など、生活に必要な場所への移動がしやすく、スタッフの方が見守ってくださっています。
自分の部屋からの移動距離が短いこともあり、母はゆっくりでも、自分の足で歩こうとしています。
今では、外出するとき以外は、ほとんど車椅子を使わなくなりました。
スタッフの方たちの対応も温かく、食事のときに同じテーブルを囲み、仲良く話せる方もできたようです。
あれほど、いろいろなことに不満を口にしていた母が、です。
先日、体調を崩していた私が回復したとき、母が言いました。
「あなたが元気でいてもらわないとー」
これまでのことを、少しは分かってくれたのかな。
そう感じた瞬間でした。
20歳で実家を離れてからの母との関係は、思えば「ちょうどいい距離」に守られていました。
同居して距離がなくなったことで、初めて見えたことがたくさんありました。
そして、母が特養へ入居した今。
私は、またこの距離がいいと思っています。
今が一番、お互いに穏やかでいられる関係です。
あわせて読みたい
母との日々を、テーマごとに詳しく書いています。
気持ちのこと
→好きになれない親の介護。罪悪感との付き合い方を、経験者が本音で書きます
仕事のこと
→介護離職して分かった、辞める前に知っておきたかったこと
→介護離職からパートで復帰するまで|50代・ブランク半年でも仕事はありました
介護サービス・施設のこと
→デイサービスは早めに検討してよかった|90代の母を通わせて分かったこと
→親の介護施設はどう選ぶ?介護施設で働いていた私が見学で確認したこと
→特養は100人待ちでも入れる?要介護3の母が入居するまでにしたこと
→特養に入居して分かった暮らしと費用|家族の負担はどう変わった?
実家じまいのこと
→実家じまいの費用|85万円の見積もりから家財回収を55,000円に抑えた方法
→遠方の空き家を売却するまで1年4か月|実家じまいで私がしたこと
同じ悩みの中にいる方に、「私だけではなかった」と思ってもらえますように。
今日という一日が、あなたにとって心地よい「ちょうどいい距離」の一歩になりますように。
きーのこと

